千春

千春との出会いは今から4年半前になる。同じ専門学校で同じクラスになったのがきっかけだ。出会った頃の千春にはいわゆる”色気”というものを感じた事がなかった。この頃の女性は高校時代には禁止されていたであろうあらゆる策を講じ色気を装う。しかし千春にはそれが無かった。活発でいつも明るく、化粧もしない。そんな飾らない千春が私にはたまらなく魅力的だった。私の他にも千春に想いを寄せる奴らはいたが、それを巧みに笑ってあしらうのも千春ならではの技だ。千春とつきあう事になったのはそれから1年後の事だった。付き合ってからも千春は変わらなかった。いつも友達のような感覚。でもそれが又嬉しかった。千春とのSEXは週に一〜二回程度。週末に私の家に泊まりに来る。SEXの時の千春は普段と打って変って静かになり、恥じらいさえも見せる。普段”性”を感じさせない千春が性を見せる瞬間。この時だけは”女性”の表情なる。私だけしか知らない表情だ。そう思うとたまらなく愛しくなり、私自身、優越感にさえ浸ってしまう。そして又、いつもの千春に戻ってゆく。上京した私は都内にワンルームのアパートを借りていた。狭い部屋だったが、千春と二人で過ごすには十分な広さだった。千春といる時はいつまでもこんな日が続けばいいと思っていた。他に何も望まなかった。しばらくして千春が就職活動を行うようになった。無論私も同様である。交際してから初めて千春の化粧姿を見た。驚く程綺麗だった。スポーツで鍛えられた見事なプロポーションリクルートスーツがよく似合っていた。思えば、その頃から千春は普段から”性”を見せる”女性”になっていったのではないかと思う。私はまた大きな優越感に浸りながら、その反面この頃から不安を感じるようになっていた。そして事実この不安は的中する事になる。「付き合ってどれ位?」千春との交際期間を聞かれると私は迷わず「3年」と答える。正確には”3年半”だ。しかし私はその”半”を認めたくなかった。この半年間は千春との交際期間には加えたくなかった。一年半前に遡り、ここからの半年間は、私にとって絶えがたい苦痛の毎日だった。千春との別れを考えたのはこの期間だけだった。4月を迎え、二人は共に就職することになった。4社目にしてようやく内定をもらった私に比べ、優秀だった千春は一発で第一志望の大手人材派遣会社に就職が決まった。週に一度千春は泊まりに来る。そのペースは就職しても変わらなかった。変わったのは私の千春対する意識だ。スーツ姿の千春を見るとどうしても欲情が湧いてきてしまう。化粧した千春の表情にどうしても”性”を感じてしまう。玄関で出迎え、そのままベッドに押し倒すこともあった。しかし、会う度色気が増してくる来る千春に対して、私は益々不安になっていった。こんな事を他人に話してもただの”のろけ話”にしか聞こえないだろう。事実二人は愛し合っていたし、千春も男の気配など微塵も感じなかった。無論私も浮気などしていない。それでも恋人の事を不安に感じるのは至極自然な感情であると思う。愛していればこそだ。さらに時が過ぎ、お互い入社2年目に迎えた頃の事だ。窓の外を見渡せば桜も散り始めた頃、その手紙は届いた。差出人は不明、消印も無い。ポストに無造作に投げ込まれたようなそれは、明らかに直接投函されたものだ。茶封筒に若干のふくらみがあった。中には一通の手紙とカセットテープが入っていた。不思議に思い、すぐにその場で手紙を開いた。「お前は何も知らない」たった一行だけ記されていた。しかしそのたった一行は、私を疑心暗鬼に陥らせるには十分過ぎた。とっさに千春の事が頭に浮かんだのだ。嫌な予感がした。私は同封されていたカセットテープを手に取り、部屋へ入った。部屋に入り、もう一度手紙を眺める。しかし、やはりそれ以上の事は書いていない。「何も知らない」とはどういう事なのだ。千春の事だろうか?どうしても千春と結びつけてしまう自分がそこにいた。そしてその真実がこのカセットの中にあるはずだった。しかし、音楽を聴かない私はこれを再生する機器を持ち合わせていなかった。そんなの千春に頼めば済む話だったが、なぜか頼めなかった。自分でまず確認したかったのかもしれない。私は近くのリサイクルショップまで出掛け3000円でヘッドフォンラジカセを購入した。自宅までの帰り道が遠く感じられた。不安でどうしようもない自分がいる。自宅へ到着するなり飛びつくようにカセットを掴み、買ってきたばかりのヘッドフォンラジカセに挿入した。ヘッドフォンを付け、高鳴る鼓動を抑えながら、静かに再生ボタンを押した。突然激しい息遣いが耳に飛び込んできた。明らかに男と女が入り混じった息遣いだ。「・・・あぁ・・・もう・・きそう・・・あぁ・・いきそう・・」雑音が入り混じり、男が何か話かけるがよく聞き取れない。「・・さん・・しないで・・はあん」「あぁん・・んん・・・・い・・いくううう!!」急に女の声が高く大きくなった。その後男がまた何やら話し掛けているようだが、よく聞き取る事が出来ない。女も甘えた声で受け答えしているようだ。およそ5分程の内容だったが、私はつかのまの安堵感を得たような気がした。この女の声は断じて千春では無い。千春の声はもっと低い、そしてこの様な甘えた声など出さなかった。少なくとも私とのSEXでは。しかし、なぜこれを私の所に送ってきたのか?「何も知らない」とはどういう意味だ?届け先を間違えたのでは無いか?さまざまな考えを巡らせながらも、一抹の不安は拭い去ることが出来なかった。しかし、何の確証もなしに千春を責めることはできない。いや聞くことすら許されないだろう。きっと千春は傷つくはずだ。わたしの知っている千春はそういう女性だ。こうして不安は消えないまま、それでも忘れる事にした。またしばらく時が経った。千春との交際は相変わらず変わらない。そして前の出来事を忘れかけていた時、再び一通の茶封筒が届いた。そして今度はカセットテープだけが同封されていた。また再び強い不安に襲われた。そして部屋に戻るなり一目散に押し入れに向かう。一度聞いただけで使わなくなった、ヘッドフォンラジカセがそこにあった。イジェクトボタンを押すと、そこには見覚えのあるカセットテープが入っていた。それを取り出し、今届いたばかりのテープと交換する。聴かない方が良いかもしれない。思い浮かべるのは千春の事ばかりだった。それでも私はこの再生ボタンを押した。また同じような激しい息遣いが聞こえてきた。違うのはその音質だった。以前のと比べ、驚く程鮮明に聴き取れた。それは悲しい程に鮮明だった。「なあ?どう?もうイキそう?」「あぁん・・んん、はあ・・も、もう少し・・」「千春はほんっとすけべな子だねえ・・見てみホラ、マンコがバイブ咥えちゃってるよ。」「はぁん・・そういう事言わないで・・・あぁ・・」「ほらほらクリちゃんにも当たってるよ。イキそう??」「ん、はぁ・・うん・・・はぁ・・いきそう・・・」「千春は悪い子だねえ・・彼氏が泣いちゃうよ?ホライク前に彼氏の名前言ってごらん。い・つ・も・みたいに。」「はぁ・・りょ、りょーちゃん・・・ああいくう・・」「”良ちゃんごめんね”だろ?ほらやめちゃうよ?」「あぁぁぁ・・意地悪しないで・・ごめんね良ちゃん・・ごめんねえあぁぁぁぁぁ!」男がわざと私に伝わる様に話しているのは火を見るより明らかだった。それに比べ千春はまったく気づいていないようだ。少し間が空いて、聞き覚えのある音が聴こえてきた。千春が男のそれを咥えている音だ。男はわざと聴こえるように近くでやらせている。そして音を立てさせている。再び男が喋りはじめた。「ああ・・千春・・今度ビデオ撮ろうぜ・・」「んん・・んんん・・」「いいだろ?千春と会えない時にそれでオナニーするんだよ。」男は千春に咥えさせたまま喋っているようだ。「よし・・いいぞ・・上にまたがってくれ・・・自分で入れるんだぞ。」男は明らかに私を挑発している。しかも私の事をすべて見抜かれているようだった。テープの中で繰り広げられる様々な淫らな行為は、私と千春の間では経験した事が無い事ばかりだった。それを知ってて男はやっているのだ。気が付くと涙がこぼれていた。これは間違いなく千春だった。そして私の知らない千春だった。私の名を叫び絶頂に達した千春の声は悲しい程鮮明で、激しく、そしてヘッドフォンを通し悲しい程興奮している自分がそこにいた。カセットテープを2度に渡り、私の自宅に届けたのはこの男に間違いなかった。無論前回のテープに出てきた女も千春だったのは言うまでもない。しかし、なぜ私の家を知っているのか?そして千春はあんな甘えた声を出す女だったのか?すぐに千春に問い詰めるべきだった。そうしなければならなかった。私の新しい生活が既に始まっていた。千春が全てだった私にとっては第2の人生と言っても過言ではなかった。新しい職場に慣れた。新しい仕事に慣れた。新しい仲間が出来た。後は新しい生き甲斐が見つかればいい。千春との”別れ”を選んだ私の判断は間違っていなかった。それなのに・・・その日玄関のドアを開けると、そこに大きな荷物を抱えた千春が立っていた。胸が締め付けられた。理解出来なかった。なぜ千春がここにいるのだ。「良ちゃ・・」「何でここが解った!?」「良ちゃんのお父さんに聞きました・・・」実家には新しい住所は誰にも教えるなと言っておいた筈だ。「突然押しかけてごめんさい。でもこうするしか・・」「何しに来た?」千春がうつむいた。そして何か思いついたかのように、その場にしゃがみ込み、ボストンバックの中から何かを取り出した。「これ・・あの次の日良ちゃん誕生日だったでしょ?あの時渡しそびれちゃったから・・・」千春と別れた翌日は、確かに私の誕生日だった。「こんな事の為にわざわざここまで来たのか?」酷く残酷な事を言ってるのは解っていた。再び千春がうつむいた。「入れよ」千春にとっては初めての部屋だ。中に入ると千春はその場に座りながら部屋の周りを見回していた。この部屋には千春との思い出の品は何も置いてない。写真はもちろん、千春のコップや、千春の歯ブラシ。千春に選んでもらったクッションも、上京した当時に実家から持ってきたセンスの無い座布団に変わっていた。あれから間もなく千春は以前勤めていた会社を辞めたという。高平との事はこの時あえて聞かなかった。「良ちゃんは元気だった?」「ああ。新しい彼女が出来た。」千春に嘘をついた。「そう・・・どんな人?」「そうだな・・・千春とは違うタイプだな。でも好きなんだ。だから・・解るよな?」これで千春が帰ってくれると思った。しかし、千春の返答は私にとって予想外だった。「私は2番でもいい・・2番目でいいから・・」「お前とは別れただろう?もうそういう事言うな。」「私は別れるなんて言ってない。別れるって言ったのは良ちゃんだけ。」「黙れ」「でも一緒に居れるなら2番でいい・・だから・・」「俺はそういう付き合い方はできない。俺はお前と違う。」「私は良ちゃんの事一度だって2番だなんて思ったこと無い!!」「ふざけるなっ!!!」珍しく大声を上げた。千春が驚いてとっさに目をつぶった。「高平とはどうなった?」自分でも一番思い出したくない名前を口にした。しかし、一番気になる事だった。「その名前は言わないで・・」「会っているのか?」「会ってない!あれから一度も会ってないよ!信じて!」「別れたと言う意味か?まあ今となっちゃあどうでもいいよ。」千春がうつむいた。傷ついてる筈だ。しかし早くこの部屋から出て行ってもらいたかった。そうしないと千春を押し倒してしまいそうだった。そして以前の自分に戻ってしまいそうだった。追い討ちをかけるように私はさらに千春を傷つける。自分でも信じられない程、残酷な言葉を投げつけた。「千春・・・」千春が顔を上げる。「高平の前でした事を俺の目の前でもやって見ろ。」千春が驚いた顔をした。そしてすぐにうつむいた。「俺の前では出来ないか千春?やっぱり俺じゃ駄目か?」千春はしばらくうつむいたままだった。ひざの上でこぶしを握り締めていた。その拳の上に涙が落ちていた。千春が涙を拭いた。そして千春はゆっくりとブラウスのボタンを外していった・・千春が下着姿になった。こうして見ると随分と痩せたようだ。千春は下着姿のまましばらくうつむいたままだった。「良ちゃん・・・」「何だ?」「・・・ビデオ・・見た時どう思った・・?」「前にも言っただろう。」「軽蔑した・・?」「当たり前だろう!」しばらくして千春が顔を上げた。千春はその大きな瞳にいっぱいの涙を浮かべ、私を見つめていた。そしてふいに強がりのような笑顔を見せた。「良ちゃんの目の前で(ビデオと)同じ事したらうれしい?」「ああうれしいねえ。うれしいけどもう服着ていいよ。」私は千春の顔を見て心が痛んだ。やっぱり心のどこかで忘れらない想いがある。「うれしい?」千春は涙声が混じっているが、明るい声で私に問い掛ける。強がっているのが手に取るように解る。もう間もなくビデオの中の千春が目の前に現れるだろう。しかし、この千春の悲しい作り笑顔だけは、ビデオの中の千春と重ねる事ができなかった。私は何も答えなかった。千春の私を見つめる大きな瞳が私の視線をそらす。そしてそんな私を見て千春が答える。「わかった!」涙声の混じった明るい千春の声だった。しばらくして視線を千春に戻す。全裸の千春がそこにいた。千春はそのままベッドにもたれかかった。涙が頬を伝っていた。そしてゆっくりと足を開いていった。私の鼓動は血管が破裂しそうなほど高まっていた。千春を止める事が出来なかった。初めて現実で見る千春のこの姿から目が離せなかった。千春の指が動く。片方の指で千春のそれを開く。開いた先にはっきりと千春の突起物が見える。指は溢れ出る愛液をすくい、突起物の上を円を描くように動く。しばらくその繰り返しが続く。早く終わらせたいという気持ちがそうさせるのか、千春は真剣だった。しかし千春は声を出さなかった。私と視線を合わすこともなかった。突然指の動きが早くなる。千春の表情が変わってゆく。今まで閉じたままの口がわずかに開く。そこからかすかな息遣いが聞こえて来る。一瞬体が硬直する。眉間に皺が集中する。間もなく千春が絶頂を迎えた。興奮は極みに達した。私は自分を抑える事が出来なかった。服を脱ぎ捨て、千春をベッドに押し倒した。千春に覆い被さる。唇を重ねる。舌を絡ませる。千春が腕を絡ませてくる。二人共涙を流していた。(今日一日だけだ・・・今日一日だけだ・・)そう何度も自分に言い聞かせながら千春を抱いた。目が覚めると千春が台所に立っていた。昨夜、二人は全てを忘れ何度も交わった。「おはよう」千春が笑顔で話し掛ける。「ああ」タバコに火をつけ視線をそらす。千春を見ているのが辛かった。私はスーツに着替えた。早めの出勤の準備をした。キーケースから1つしかないこの部屋のカギを抜き、テーブルの上に置いた。「カギは一つしかないからポストに入れておいてくれ。」私は遠まわしに千春に帰れと言っている。そして千春はその言葉を予期していたかの様に唇をかみ締め、やがて静かに頷いた。「じゃあ行って来る」その言葉を聞き千春の目から涙がこぼれた。「もうすぐ出来るから・・ね?・・食べてって・・・」床にはコンビニの袋が置いてあった。恐らく朝早く起きて買ってきたのだろう。私は再び視線を落とす。そして持っていたカバンを置いた。千春の作った朝食がテーブルに揃った。ご飯に味噌汁、ししゃもにハムエッグ、そして納豆にサラダ。コンビニで揃う材料と言ったらこんなものだろう。それでもなぜか千春の味がした。運んできたのは私の分だけだった。「お前は食わないのか?」「いい。良ちゃんの食べる所見てる。」「食いづらいじゃないか」「いいじゃない。それよりごめんね、こんなものしか作れなくて・・」「十分だ」千春が作った朝食を食べ終え、私は再び立ち上がった。千春は座ったまま私の方を見なかった。「じゃあ行って来る。カギよろしく」千春が黙って頷いた。私が出て行くまで、千春はその場を動かなかった。(これでいいんだ・・)私は自分に言い聞かせ、部屋を後にした。午後になると私は得意先まわりを始める。しかし今日は何もやる気が起きなかった。一番仲の良い所へ連絡し、訪問した事にしてもらった。缶コーヒーを買って、公園のベンチへ腰掛けた。千春の事を想い浮かべる。まだ部屋にいるだろうか?忘れかけてた頃に突然やってきた千春との再会。そのお陰で今も頭の中は千春一色だ。会わなければこんな思いをする事も無かった。ふと、ある事を思い出した。お門違いなのはわかっていた。それでも私は実家へ電話した。言うまでもなく千春に住所を勝手に教えた親父に抗議するためだ。今年定年退職して、普段は家にいる。私より無口で、必要な事しか喋らない頑固親父だ。しばらくして親父が電話口に出た。「なぜ住所を教えたんだ。」「なぜって聞かれたからだ。」親父は何の事か聞きもしなかった。それよりこの開き直った態度が許せない。「教えるなと言っておいたろう!」「生意気言うな!どんな理由があったにせよ、女の子をあんなに泣かすんじゃない!」親父が突然電話口で怒鳴った。「理由も知らないで勝手な事言うな!」私も公園である事を忘れていた。「あの子がお前を裏切ったんだろう。あの子から聞いた。随分自分を責めていたぞ。」「そうだ。裏切りは許せない。それがなぜ教える事に繋がる?」「いいか?年頃の女の子がそれを話すのにどれだけ勇気がいったか解るか?しかも相手の父親にだ。俺はそれに応えただけだ。」「・・・そんなの知るか」「それに俺は教えないなんて約束してないぞ。約束したのは母さんだろ?」「ガキみたいないい訳するな!」「お前はあの子が好きなのか?」「関係ないだろそんな事」「好きなら度量を持て。相手を許せる度量を持て。」「・・・・好き勝手言いやがって・・」「まあたまには帰ってこい。以上!」突然電話が切れた。それにしてもこちらから電話しているのに”以上”で締めくくる親父には呆れた。しばらく公園を歩いた。会社に戻るまでにはまだ十分な時間がある。”度量”頭の中に親父の言葉が残っていた。千春が好きか?−−−考えるまでも無い。好きだ。千春と出会った事を後悔しているか?−−−していない。それなら千春を許せるか?−−−・・・・・・・・。自問自答を繰り返す。いつになっても答えは出てこなかった。気がつくと既に5時を回っていた。私は会社に戻る為、駅まで歩く。駅に着くまでも着いてからも考えるのは千春の事ばかりだ。ホームに勢いよく電車が飛び込んでくる。お前の生き甲斐は何だ?−−−以前は千春。今は・・・。もう一度千春に会いたいか?−−−会いたい。千春が好きか?−−−好きだ。大好きだ。私はやっぱり千春が好きだ。目の前の電車のドアが閉まる。それは私をホームに残し、ゆっくりと動き出した。気がつくと私を乗せた電車は自宅の最寄駅へ向け、既に走りだしていた。許す許さないはもうどうでもいい。私は千春が好きだ。千春を失いたくない。千春、千春、千春。もう千春の事しか頭に浮かばない。駅を出ると、自宅まで走り出した。千春はまだ部屋にいる。そう自分に言い聞かせ、全速力で走る。自宅へ着くとポストにわき目もふらず玄関まで走る。ドアノブを勢い良く回した。・・・しかし、ドアは開かなかった。ポストへ向かった。震える手でポストのつまみを掴む。まるで怖いものでも見るかのように、ポストの中を覗き込んだ。2つ折りになったメモ用紙が見える。そしてその上に私の部屋のカギが置いてあった。メモ用紙を手に取り、開いた。千春からの最後のメッセージがそこにあった。”ありがとう良ちゃん”カギを握り、部屋へと戻る。私は携帯電話を握っていた。アドレス帳には千春の名前は無い。一番忘れてはならない電話番号を忘れた。いや、アドレス帳に頼りすぎて、初めから覚えてなど無かったのだ。アドレス帳から千春との共通の友達を探す。千春を知る私の男友達は、千春の電話番号など知るはずもない。そして私が知る千春の女友達の電話番号は私は誰一人として知らない。千春の自宅へは行ったことが無い。千春は両親と同居の為、会うのはいつも私の自宅だ。どの町に住んでいるかは知っている。ここから電車で大凡一時間の所だ。しかしそこから千春の自宅を探しだすのは至難を極める。それなら駅で待ち伏せしてみたらどうだろう?通勤時間を狙えば千春は現れる筈だ。しかし、千春が会社を退職している事に気づくまでそう時間は掛からなかった。テレビの上に千春からもらった誕生日プレゼントの紙袋があった。中身を空ける。中から新品の財布が出てきた。私は高校時代から財布を変えた事がない。就職して千春に何度となく変えるよう薦められた。私の財布は、社会人が持つ財布ではないとの事だった。私はもう使い古してボロボロの財布から、千春がくれた真新しい財布に中身を入れ替える。入れ替えながら涙が止まらなかった。ふと、千春が尋ねて来た時の事を思い出した。”良ちゃんのお父さんから聞きました。”千春は親父から聞いてこの住所を知った。もしかしたら親父が何か知ってるかもしれない。また親父が電話口に出た。「千春から電話番号とか聞いてないか!?」「誰だそれは?」「この間親父が住所を教えた女の事だ。連絡先知らないか?」「そんなの知る訳ないだろう。」「・・そうか。」「なんだそれだけか?」「・・ああ。それだけだ。んじゃあな」「何だお前は・・ああそういえば昨日その子から何か届いたぞ。お前に電話するの忘れてたな。」「それを早く言え!そこに連絡先書いてあるだろう!」「ああそうか。でもそんなの取っといてあるかなあ。」「早く探せ!」「それが人に物を頼む態度か!」「いいから早くしてくれ!」親父は舌打ちして、乱暴に受話器を置く。その様子が受話器を通して耳に伝わってきた。遠くで母親を呼ぶ声がする。親父が戻ってくるまでの時間が待ち遠しい。「おう、あったぞ。」「教えてくれ!」私は親父が読み上げる千春の自宅の住所と電話番号を書き留めた。「ところで何が届いたんだ。」「ああ何かえらく高級なチョコらしいな、確か”デコバ”とか言う・・」「”ゴディバ”じゃないのか?」千春は私をはじめ家族全員が甘党である事を知っていた。「ああそれそれ。母さんが喜んでたぞ。後で手紙書くって言ってた。お前からもお礼言っとけ。」「わかった。悪かったな。」「用事はそれだけか?いいなら切るぞ。」「親父」「何だ」「今度帰る時何か買ってってやる。何がいい?」「めずらしいじゃないか、そうだな・・んじゃ”万寿”がいいな。」「マンジュ?」「久保田の万寿だ。酒屋に行ってそう言えば解る。」「わかった。買ってくよ。」「母さんの奴、最近徳用の焼酎ばっかり買ってきやがんだよ。未だに酒と焼酎の違いが解ってない。お前からも言ってやってくれ。」「まあ仲良くやってくれ。んじゃあな。」何も言わず親父から電話を切る。これが親父の悪い癖だ。この3週間後、まるで親父に騙されたかの様に財布の中身から1万3000円が消えていった。電話はしなかった。この日私は会社を休んだ。直接千春の自宅まで向かった。千春と同じ事をしてみようと思った。玄関のチャイムを鳴らす。しばらくして千春の母親が出てきた。私は自分の名を告げ、千春を呼び出してもらった。すると母親は微笑み、千春を呼びに行った。千春の母親は全てを悟っているようだった。千春は驚くだろうか?あの日から5日間が経過していた。千春が階段から駆け降りて来た。千春の部屋は2階らしい。「良ちゃん?!」千春が驚いていた。「どうして?」ジーンズに真っ白なブラウス。ラフな格好だが、そんな姿が千春には一番似合っている。「”デコバ”のチョコレート悪かったな。お袋が喜んでたそうだ。」「ゴディバでしょ」千春が笑顔に変わった。皮肉にも2度に渡り二人を引き合わせたのは親父だった。「こんな所まで・・電話してくれればそっち行ったのに・・」「俺と同じ思いをさせてやろうと・・」「上がって」千春の部屋に初めて入った。整理整頓という言葉が最も似合う、千春らしい部屋だった。壁にかかるコルクボードは、私と千春の写真で埋め尽くされていた。その全てが幸せの絶頂の二人を映し出していた。やがて千春がコーヒーを両手に2階に上がってきた。「座って」「あ、うん。」「初めてだね。部屋入るの。」「綺麗にしてるんだな。」「私A型だもん」しばらく沈黙した。先に切り出したのは私の方だった。「ずっと千春の事を考えてた。」「私も良ちゃんの事考えてた」「やっぱり千春が好きだ。別れたくない。」「・・・・・・。」千春がうつむいた。「彼女はいいの?」「あんなの嘘だ。彼女なんかいないよ。」千春が顔を上げる。既にその瞳には涙が溜まっていた。「私を許せるの?」千春は涙声だった。千春は私の前で随分と惨めな思いをした筈だ。随分と傷ついた筈だ。それでも千春は私を必要としてくれた。「もう許すとか許さないとかどうでも良くなった。千春が居てくれればそれでいい。」「良ちゃん・・」「一緒に暮らそう千春」一年後・・二人は千春の実家へ向かっていた。一年前のこの日、二人はその場所から再出発した。そしてその場所は、また新たな生活を始めるために最初に行かなければならない場所だ。「俺殴られないかな?」「解んない。うちのお父さん空手やってるからなあ・・」「うわぁ・・胃が痛い。お前守ってくれよ。」「大丈夫だよ。何となく話しておいたから。怒ってなかったよ。」「そうだといいけど・・」結婚するにはいささか若い二人だ。しかし、急がなければならない。千春のお腹の中に新しい生命が宿った。千春とともに歩む事を決めた。守らなければならないものがもう一つ増えた。迷いも後悔もない。千春がいる。子供が産まれる。私の”家庭”が出来る。私は今幸せの絶頂だ。不安が無いと言えば嘘になる。でも以前の不安とは百も違う。足りないものは二人で補っていけばいい。失ったものは二人で埋めていけばいい。大事なのはお互いが”信じる”ことだ。二人は扉の前に立った。この扉の向こうに新しい世界が待っている。千春を見た。千春が微笑んだ。いつも千春が隣に居てくれる。千春が扉を開き中へと進む。私もその後に続く。奥から初めて聞く、千春の父親の声がする。私は千春に気づかれぬ様、手の平の汗をそっと背広で拭った・・・F I N高平と千春の関係は同じ職場の先輩と後輩で、千春の新人研修の担当していたのが高平だったと言う。いつも千春と行動を共にする高平に、仕事帰りによく食事に誘われたらしい。高平は千春の研修担当だ。食事に誘う口実はいくらでもある。その日も高平に食事に誘われたらしい。いささか酔った千春は、朝目覚めると高平が横で寝ていたと言う。千春が推測するに、この時千春の手帳を見られ、私の住所を高平が知ったのでは無いかと言う事だった。それからも高平は執拗に千春を誘う。千春は何度もそれを拒否したが、ある時高平が私に関係を暴露すると脅してきたらしい。千春は私への後ろめたさを感じ、もう一度だけ高平に体を許したという。そこからが始まりだった。だんだんエスカレートしてきた高平は、千春に色々な事を要求するようになった。千春も雪だるま式に私への秘密が増え、受けざるを得なくなったと言う。やがて高平のSEXに溺れていくようになり、最終的にはあのような千春になっていったのだ。しかし、高平はそれだけに留まらずさらなる興奮を求めるようになる。それがあの私への挑発だろう。その時点で恐らく千春は、高平にとってただの玩具に成り下っていたのだ。私が全てを知り、千春との”別れ”を決意した。私を失った千春は高平に詰め寄った。そこで高平に決別を告げたと言う。高平はそんな千春を見て嘲笑うかの様にすんなり承諾したと言う。そして間もなく千春は退職届を提出する。私は全てを千春から聞き出した訳ではない。若干私の推測もある。高平を訴える事も考えた。しかしその高平の名を口にする度千春は憂鬱になる。無論私もだ。その為、私は高平と共に、この味わった苦悩の日々を記憶から抹消した。無かった事にする。そうする事で二人は幸せになれる。これが二人の交際期間の”半”に当たる部分。千春と一緒に過ごした”3年半”。しかし二人の交際期間は3年間で、新しい生活へ向け今も尚継続中である。