【続】2度目の告白.txt

あれは高校2年の時…。どうしても告白したい、好きな子がいた。勿論それまで付き合った事も、女と喋るのも苦手だった。周りの友達からは「やめとけ、お前じゃ無理だ」「あの子レベル高いぞ?釣り合ってねーよ」「あいつはライバル多いぜ?バスケ部のエースも惚れてるらしい」「つか、うちの学校で一番人気じゃね?」などなど、今にして思えば彼らの中にも彼女に惚れている奴がいたかもしれない。名前は仮に美樹さんとしておこう。男友達はいたが、女が苦手な俺は当然、モテなくて、奥手で、冴えない奴だった。放課後、茜色の空の中、手をつないで帰る同級生のカップルを、眩しく見つめる事もあった。俺は、帰宅部、成績中の中、顔は中の下。スポーツも大して得意じゃない。球技は苦手だ。確かに釣り合っていない。自覚はしていた。だが、それでも俺は告白したかった。告白したくなる理由があった。当時美樹さんは体操部に入っていて、毎日必死に練習していた。その美貌故、ファンも多く見学者という名の覗きは後を絶たず、異例な事だが男子は体操部の練習は見てはいけないという決まりが出来た。男子の不埒な視線が集中力を妨げると。それでも悪ガキというのは懲りないものだ。ダメだと解かると益々見たくなる。禁止された事によって、その行為の価値は尊くなったのだ。案の定、「おい毒男、見つけたぞ!秘密の覗き穴!来いよ!」悪友の一人が誘う。「ええ?ちょ、ちょっと待てよ!引っ張るなって…」「これのどこが覗き穴なんだ?…くっ…」「(小声で)バカ!動くなっ!落ちるだろ!?」何のことはない、校舎と校舎の狭い隙間に入り込み、俺に肩車された悪友がギリギリの高さで小窓の淵から覗いている。俺が彼の土台に選ばれたのは単に背が高かったからだ。「…おお、スゲー…見える…!」彼は興奮気味に言う。俺は膝が震えだし、肩も軋み、それどころではない。「…おい…まだか?ボチボチ限界だ…。」「変わるか?毒男」「いや、俺は…いいよ」「そうなのか?欲のないやつだな。…じゃあ、もうちょっとだけ…ってヤバイ!」「え?どうした?」「誰か向かって来る…!!って、動くな!」「うわあ…」バランスを崩した俺達は倒れた。大きな落下音と悲鳴が木霊した。「ヤバイ、逃げろ!」悪友は運が良かった。俺の上に倒れ、俺がクッションとなり、倒れたながらも着地の体制が良かった。そのまま脱兎のごとく駆け出した。俺を見捨てて。俺は背中から倒れた上、足を少しひねった様だ。痛い。すぐには動けない。見上げたさっきの小窓から顔が見えた。――美樹だった。名前くらいは俺でも知ってる。学校の男の誰もが知っている。片瀬美樹。学校のマドンナ。…目が合う。動悸が高鳴る。顔が熱い。「美樹ー!誰かいたのー?」体育館の中から他の部員の声がする。俺は我が身の不運を嘆いた。俺は覗きなんてするつもりはなかったのに。でも、そんな言い訳は通じるわけがない。悪友の誘いを断らなかった事を今更ながらに自分を悔いた。…これまでか。親は泣くかな。女子には変態呼ばわりされるかな…。観念にも似た諦めの気持ちでいると、片瀬は口を開いた。「何をしてるの?そんなところで倒れて」抑揚のない、落ち着いた声、怒気は感じられない事務的な声。「いや…足を捻っちゃって…」俺はそんな事しか言えない。彼女が聞きたかったのはそんな事ではなかったろう。片瀬は俺の顔から俺の足に視線を移す。「美樹ー?どうしたのー?」ヤバい、もうダメだ…。俺は目を閉じ、天を仰いだ。「んーなんでもなーい!」「え?」「…早く行きな?」「う、うん」俺は釈然としないまま、足を引きずりながらその場を離れた。どうして片瀬は俺の事を逃がしたのだろう…。しばらくして、花壇の淵に腰掛け、足の様子を見る。すると、片瀬が向こうからやってくる。まだ体操服を着ている。練習の休み時間だろうか。抜け出してきたのか。俺に用があるのか。さっきの事だろうか。逃げられる雰囲気じゃない。俺は身構えた。「足は?痛い?」「あ、う、うん…」「見せて、捻挫?」言って俺の前にしゃがみこむ。「いいよ。大丈夫」「いいから」有無を言わさない強さを言葉の中に感じる。負い目がある手前、逆らえない。靴と靴下を脱ぎ、素足を晒す。たったそれだけの事なのに、どうしようもなく恥ずかしい。俺は彼女から目を背けた。大きな瞳と、白い肌、艶のある綺麗な黒髪を束ねたうなじはもう少し見ていたかったけれど。「腫れてはないね、本当に捻っただけみたい。これなら大丈夫だよ」「わかるの?」「体操は意外と怪我が多いの。特に足はね」「そうか…」「無理しないで、帰ったら冷やしておけば良くなるよ」「あ、ありがとう…」「覗きはダメだけどね」「あ、いや…あれは…」「ふふっ…お大事に!」小さく患部を叩く。彼女なりの断罪の方法だったのだろうか。「いて…」大した痛みではなかったが、俺は小さく呻いた。片瀬は悪戯っぽく微笑む。彼女は少し早歩きで体育館に戻って行った。俺は彼女の背中が見えなくなるまで見つめていた。その間、足の痛みは全く気にならなかった。その代わり、胸の奥に僅かに痛みを感じた。この日のこの出来事が、全ての始まりだった。翌日、痛みはもうなかった。足には。俺は悪友を責める。見捨てて逃げた事を。「いや、ゴメンな…。何も考えられなくなっちゃってさ…」この男の行動には悪気はない。それはいつもの事で、皆知っていた。俺はとりあえず文句を言った事で満足した。それから少したったある日。その日は放課後は教室で遅くまで友達と喋っていた。もう暗くなり、みんなと帰ろうと校門まで来たが、忘れ物をした俺は皆を先に返し、教室に戻った。「一人で帰るか…」つぶやきながら教室を出る。玄関から校門に向かって歩く時、大きな声がした。「おーい。ちょっと待ってー!」「?」「あ、いたいた。探したのよ、貴方の事」片瀬だった。練習が終わって今帰りだろうか。「片瀬…さん?」「あ、私のこと知ってるんだ。そう、2-Bの片瀬美樹。でも私も君の事探してたんだよ?」「え?どうして?」胸の中に警戒の鐘がなる。どうしても後ろめたい気持ちをぬぐえない。「いや、ちょっと話があって。…でも名前も知らないし、まさか、覗いてた人っていうわけにも行かないし」彼女はそういって笑った。とりあえず怒っている感じではない。気後れの、人見知りのしない朗らかな人だった。「話?こないだの事?」「そうそう。ねぇ、どうして覗いてたの?」「どうしてって…いや、実は友達が…」俺は簡単に顛末を説明する。「ふーん、でその友達は?」「い、いや、それはちょっと…名前は言えない…」「なるほど、俺は連れてこられただけ。手伝いはしたけど覗いてはいない。だけど、その主犯の名前は言えない。って事ね?」「あ…」言われてみれば虫のいい話だ。それでは自分が覗いていたと言ってるようなものだ。「そんな話、通じるかなぁ…?」「う…」俺は言葉に窮した。が、「ごめん。俺が覗いてたんだ…。友達の話は嘘だ。」「ふーん、で、どうだった?練習風景は」「えーと、レオタードを着てた人がいて…踊ってた…」「ぷっ!あはははは」「え?どうしたの?」俺は何故彼女が笑うのかわからない。「だって…くくっ、練習でレオタード着てる人なんていないよ…本番を想定した演技の練習ならともかく、普段は体操着とかジャージだよー。あははっ」「え?あ、そう言えば、片瀬もあの時体操着だった…」「あはは、わかったわかった。君は本当に見てない、覗いてないのね。信じましょう!実際あの時、二人の人間の悲鳴が聞こえたし、確かに一人ではあの窓まで届かないしね。台になるようなものもなかったし」「あ、ありがとう…」「いいの、いいの。私もちょっと意地悪だったね。ゴメンね?でも、なんで友達を庇うの?あなたの事置き去りにしたんでしょ?」「え…あー、そう言えばなんでだろう。…ごめん、よくわからない。なんとなく、言っちゃいけないような気がして…」「それで、自分が罪を被ってもいいって?」「…うん。なんかそんな綺麗な感じじゃないけど…」「真面目なんだね。君って。」片瀬は感心したように言う。なんだかこそばゆい。「そんな事ないよ…。」「いや、偉い偉い。」そういって彼女は俺の肩を叩く。「そう言えばまだ、名前も知らなかった。クラスも。あ、学年もだ」彼女はまた笑った。よく笑う人だ。「えと、2-Aの西野尚(仮名)」「にしのひさし君。部活は?」「…帰宅部」「そう、…だと思った」また笑顔。この日、初めて彼女とちゃんと話した。正確には、こんなに長い時間女の子と話したのも初めてだった。「でもどうして、ウチの学校の男の子はすぐ覗くんだろうね。ちゃんと体操って物を見れないのかな」彼女は少し、悲しげに呟いた。「そんな事はないと思うけど…」「本当?君はそう言えるの?」大きな瞳が俺を真正面から見つめる。「いや、実際に見たことないからわからないけど…」自信なさげに俺は答えた。「そう…。…じゃあ、今度ちゃんと見てみる?練習。覗きじゃなくて、ちゃんと。近くから」「…え?」覗きの片割れ、フリーパスをゲット。「そんなこと出来るの?だって男子の見学は禁止じゃ?」「ううん、男子の見学が禁止なんじゃなくて、ニヤニヤしながら笑ったり、ふざけたりするのがダメなの。そういうのは私も迷惑だし、気も散るわ。かといって、じーっと真面目に覗いてるのも嫌だけど」彼女は笑う。「だって本来体操は人に見てもらう為の競技でしょ?見学ならいいのよ。ただ、そういう理由があるから、男子が正式に見学する場合には部員の推薦が要るの。だから私が前もって伝えておけば大丈夫なの。それとも、迷惑?別に見たくないかな?」「いや、そんなことは…。見てみたいよ。見たことないし。あ、変な意味じゃなくて」「ふふっ。わかってるって」「…でもさ、聞きたいことがあるんだ」「何?」「どうして俺を招待してくれるの?あとさ、どうしてあの時、俺を助けてくれたの?片瀬さんにとっても、覗きは迷惑なんだろう?気が散るし」「…それは…うーん。別に言ってもいいんだけど、練習見てくれたら教えてあげる」彼女は少し逡巡したあと、そう言った。「わかった。見学させてもらうよ。」「そう。じゃあ、明日は?」「うん。問題ない」「帰宅部だもんね」彼女はからかうように笑う。でも嫌味な感じは少しもしない。この明るい性格の成せる業なのだろう。次の日。「おーい、尚ー。どっか寄ってかねー?この後」HRが終わり友人が声を掛ける。「いや、今日はちょっと」なんとなく、体操部の練習を見に行くとは言いづらかった。囃し立てられるのがオチだったから。一緒に行きたいと言い出す奴もいただろう。俺は体育館に入る。体操部のコーチが寄って来る。「西野か?」「はい」「そうか、邪魔にならないようにな」「はい」俺は体育館の隅の目立たないところに座る。なるべく部員達から気付かれないような場所で。他には数人の女子生徒がいた。男の見学者は今日は俺だけ。なんだか恥ずかしい。「あ、西野君。来てくれんだ?」練習の休み時間、片瀬が寄って来る。汗をかいていて、髪が首筋に少し絡んでいる。ほのかに頬が上気していて色っぽい。が、そんな事は言えない。「うん」「なんでそんなところにいるの?」「いや、邪魔にならないようにと…」「西野君らしいね」小さく笑う。「どう?」片瀬は俺の隣に腰掛けて水を飲んでいる。白い喉が鳴る。なるべく見ないようにした。「そうだね…凄いと思った」「凄い?」「なんていうか…細くて小さいのに…力強い。しなやかで、柔らかいんだけど、たくましさも感じる。俺はオリンピックとかでしか見たことないから、専門的なことは解からないんだけど、入念にストレッチとか準備運動、反復練習をしてたよね?」「うん」「そういう、地味な、目立たないけど苦しい基礎訓練をしているから、ああいう凄い動きが出来るんだな、と思った。実際は、普段の練習はとても地味で、辛そうだ。でも、それを我慢して、本番で披露するから美しく、綺麗に見えるのかなって思った。白鳥が、地上からは優雅に泳いでる様に見えるけど水面では一生懸命に水を掻いているような」俺は始めて演技を見た事で、少し興奮気味に話した。「……。」片瀬はビックリして俺を見てる。「?どうかした?」「なんか意外…」「何が?」「あ、ごめん、休憩終わりだ。行かなきゃ。あ〜最後まで見てく?」「うん」「じゃあ、終わったら、体育館の外で待ってて」「あ、う、うん」(体育館の外で待ってて…。「待ってて…」か。)なんだか俺達が付き合ってるような言葉だな。…少し照れて、しばらく頭の中で反芻していた。練習が殆ど終わり、クールダウンのストレッチに入った頃、俺はそっと体育館を出た。外は暗くなり始めていた。体育館の向かいの花壇に腰掛けて、俺は片瀬を待った。なんだか無性にドキドキする。少し不思議だ。考えてみれば、どうして俺は片瀬と待ち合わせをしてるのだろう?覗きの幇助をして、本来弾劾され、学校から厳重注意を頂いてもおかしくない立場なのに。本来、体育館で体操部の練習を堂々と見ていられる立場の人間ではない。近づくのを禁止されても文句は言えないのに。何より、片瀬本人にも嫌われて、軽蔑されて当然の事をしてしまっているのに。それが、どうしても知りたかった。聞きたかった。他の部員が少しずつ帰っていく。校門の方へ。やがて、体育館の照明が落ちた。――片瀬だ。俺の胸は何故か騒ぐ。覗きをやっていた時とは違うリズムで心臓が鳴る。「ごめん、遅くなって。待った?」「いや、大丈夫」(ごめん、遅くなって。待った?)くどいようだが、いちいちデートのような言葉に当惑する。心がかき乱される。「えへへ、シャワーが混んでてさ」「ああ、そうなんだ」またしても俺はシャワーという言葉にかき乱される。一体どうしてしまったのだろう。片瀬の身体が側に来るとシャンプーのいい匂いが風に運ばれてくる。眩暈を起こしそうになる。「じゃあ、いこっか?」「…え?どこに?」「あ〜言ってなかった。時間ある?」「うん。大丈夫だよ」「帰宅部だから」「帰宅部だから」今度は言われる前に言った。結果、ハモった。二人で笑う。…楽しい。俺は照れていたけど、この時間を離したくないと思った。やがて二人でファーストフードの店に入った。考えてみれば女の子と二人でこんなところに来たのは初めてだ。というか、これはデート?デートと呼べる代物なのだろうか?いや待て、こんなのはただ、たまたま偶然…―――取りとめもない思考が頭を交錯する。「ようやくゆっくり話せるね」片瀬がレモンティーを飲んで言う。「そうだね」俺は答える。少し、二人の間に柔らかな空気が流れているのは多分、錯覚ではない。片瀬は少し楽しそうだ。きっと俺はそれ以上に。改めて彼女を真正面から冷静に見る。照明の充分な室内で。考えてみれば、面と向かって、二人腰を据えて話し合うのは初めてだ。俺は常に彼女から目を背けて話していた気がする。愚行のせいで。それのお陰で今こうしているのだが。今更ながらその美しさに我を忘れそうになる。黒く繊細な、流れるような髪。普通の女性より鍛えられているのだろうが、細く華奢な身体。白魚のような指先。小さな顔、雪のように白い肌。細く整った眉、切れ長で大きな瞳は少しだけ勝気な印象を与える。今は穏やかだが。細く涼しげで整った鼻梁、小さく形のいい唇は笑うと笑窪ができる。まだ幼さを多分に残してはいたが、それでも彼女の美しさは際立っていた。事実、ここに来るまでも、彼女にすれ違う度、振り返る人が何人かいた。年頃の男子が、禁忌を犯してでも覗きたくなる気持ちもわかる。俺は覗いたんだけれども。「?どうしたの?」「ああ、いやなんでもない」…君に見とれていた…なんて思っていても言えない。「で、さっきの話だけど…」「あ、その前に、私が話してもいい?」「え?ああ、うん」「さっきの西野君の感想ね。ほら、休憩中に聞いたやつ」「うん…意外だったって…ビックリしてた」「そう。ビックリした。何ていうか…あんまりお話は上手じゃないのに…言葉が…何て言ったらいいんだろう…詩的な表現だったって言えばいいのかな?それと、競技の本質を突いていたと思う。初めて見たのに」彼女は少し身を乗り出していった。「ね、勉強できる?」「いや、大して…真ん中くらいだよ」「じゃあ、得意な教科は?」「国語…かな。論文とか作文とか…」「やっぱり!だと思った!」「え?」「さっきそう思ったの。ね、いつだったか、賞を貰った事がなかったっけ?全校集会で」「あ〜こないだのやつだね、確か感想文だった。いや、でも、他にも貰ってた奴いたし、別に…」「違うの。私文芸部の会報で見たの。ねえ、何について書いたの?」「えーと、森鴎外だった」「それ!それよ!私凄く共感したの!」「そうなの?」「うん!いや、信じられない!あなたを見た時には気付かなかったんだけど、そうじゃなんじゃいかって昨日思ったの!ほら、授与式の時に簡単な説明があったじゃない?それで多分あなたの事を記憶してたの」片瀬は完全に身を乗り出し、顔が俺の顔のすぐそこだ。こんなに驚いた彼女の顔を見たのは初めてだ。といっても、あとは笑顔と、競技に打ち込む顔しか知らないが。「よく覚えてたね…」俺はなんだか居たたまれない。面映い。自分のした事をこんなに認めてもらった事はなかった。勿論、嬉しいんだけど。「…それで、覗いてた時、助けてくれたの?」「うーん。それは半分。」「どういう事?」「もしかしたら、あの人なのかなっていうのも助けた理由。もうひとつは、なんか違ってた」「違ってた?」「うん。覗きは珍しくないの。よく来るし。勿論歓迎はしてないわ。」「…うん」俺は途端に小さくなる。「あ、西野君はもういいの。怒ってないし、あなたは悪くないから。友達は…ちょっと酷いけど…」彼女は笑う。「何て言ったらいいか…覗きってね、悪いと思ってないのよ」「どういう事?」「うーん。私も良く見つけて、怒るんだけど、大概が、ヘラヘラして悪びれもなく帰るの。この人達は本当に自分が悪い事をしている自覚があるの?って思う。あとは…ちょっとオタクっぽい人。この人達は…なんか怖い。怒ると、なんだか不気味に笑うの。何を考えているのか解からないl怖さがあるの」「ふーん。で、俺は、どうだったの?」「どっちでもない感じがした。開き直って悪びれるでもなく、かといって何考えてるのか解からないでもなく。なんていうかね、本当にバツの悪そうな、申し訳なさそうな顔してた。ふふっ、それに怪我なんてしちゃったドジな人は初めて。それで、ちょっと同情しちゃったのかもね。ははっ。」そう言って片瀬は無邪気に笑った。ちょっと馬鹿にされているわけだが、少し照れはしたが、嫌な気持ちはしなかった。むしろ、俺の行動が元々悪い行為だったとは言え、彼女の笑顔を引き出せたことが少し嬉しかった。「それはどうも。見逃していただいて…」「うん。私も逃がしてよかったと思うよ。今こうしているとね」静かに微笑む。彼女も今この時を、楽しいと思ってくれているのか。「ね、西野君は小説家になるの?」「え、なんで?」「だって、文章得意じゃない?国語の成績もいいし、洞察力…っていうか観察力もあると思う」「買いかぶりすぎだよ。そんな大したものじゃない。ちょっと人より本が好きなだけでさ」「そうかなぁ…」「それより、片瀬さんは?体操ずっとやってくの?」「うーん、多分高校まで…かなぁ…?」「どうして?それこそ、俺の文章なんかよりずっといけるのに」「それこそ買い被りだよー。大体ウチはそんなに強い、レベルの高い学校じゃないし…。でも好きだからやってるけどね」「そうなんだ…でも実力はかなりあるように思えたけど、正直、一番上手かったと思う。見栄えが一番良かった」「どうして?」「まず…手足が長いから、同じ技でも他の人よりも凄く見える。大きく見える。例えば、足を上げるの一つにしても、片瀬さんと他の部員じゃ高さが違う。何ていったらいいかな。同じ模様でも、孔雀の羽も大きい方が見栄えがいい。迫力がある。…みたいな感じ」「…ありがとう。ちょっと照れちゃうね」彼女は頬をほのかに染めた。照れた顔も初めて見た。「でもね、体操ってあんまり大きいとダメなの」「そうなの?どうして?」「小さい方が回転とか…バック転とかする時、小回りが効くでしょう?」「え?」「…極端な話だけど、2メートルの人が1回転するのと、1.5メートルの人が回転するの、どっちが早くて、沢山回転できると思う?」「…あ…」「確かに大きい人が見栄えするって言うのは解かる。体操以外の、ダンスなんかではそうね。でもポイント制の体操では、どれだけ何度の高い技を出来るかが問題なの世界的なトップレベルの女子選手の平均身長は150cm前後。ウチは大して強い部じゃないから色んな背丈の人がいるけど」「片瀬さんの身長は?」「166cm。ちょっと大き過ぎるね」「ああ…ごめん。無責任な事言っちゃったね、俺」「ううん。あくまで、トップレベルの話だから。仮に私が小さくても、そんなところまではいけないよ」彼女は屈託なく言う。「でも」「ん?」「嬉しかったな、西野君の批評。大きいのは、体操やってる人間としてはあまり嬉しくないんだけど、そういわれると、嬉しい。本当に」俯きながら言った。さっきとは打って変わって消極的で、声も小さい。俺は少しでも、彼女を喜ばせる事が出来て嬉しかった。喜ばそうとしていったつもりではなく、本心から言った事が彼女を喜ばせた事に二重の喜びを感じていた。「…じゃあ、また明日」「うん、また明日」ファーストフード店から出てしばらく歩いた俺達は、別れ道に差し掛かった。名残惜しいが、楽しい時間だった。「ありがとう、色んな話してくれて。楽しかったよ」微笑みながら、片瀬は言う。「いや、こっちこそ。嬉しかった。褒めてもらえて」俺はどうにか言葉を繋ぐ。「じゃあね。気をつけて。お休み」別れの挨拶は俺の口から彼女の耳に。「…うん。お休みなさい」その答えは彼女の口から俺の耳に。空を見上げた。気が付けばもう、大分前に夜が始まっていた事を空は俺に伝える。俺は一人、帰り道、この胸の暖かさについて考え…る前に理解した。脳より先に身体で。俺の考えは解かった。すべき事も同時に。(…伝えるんだ…!この気持ちを彼女に。俺が恋した、好きな人に。)…俺は溜息を風に乗せ、呟いた。その時は不思議と怖さや不安はなかった。暗い闇夜の中を、静かに微笑むように照らす今夜の満月の様に、俺の心は満ち、透き通り輝いていた。翌日。気持ちは固まったが、きっかけが掴めない。そもそも俺は片瀬といつでも会える訳じゃなかった。クラスは違うし、彼女には部活動もある。俺とは帰る時間も違うし、学校で見つけても大概二人とも周りに友達がいる。友達の中で俺と最も仲がいい秋田という男がいる。明るく、冗談好きで、面倒見のいい、まとめ役のような男だ。「ああ〜もうじきマラソン大会か〜。嫌だなぁ…」「そうだな」俺の返事は素っ気無い。「8㌔だぜ?8㌔。俺達ゃメロスかっつーの。友達人質に取られてんのかっつーの。俺はかーちゃんの奴隷じゃないっつーの」「なんで最後だけタケシ?」俺は彼の冗談に笑う。彼は抜群にモテるような美男子ではないが、生来の明るさと面倒見のよさで友人が多かった。男子にも女子にも。必然、女子の話題にも詳しい。「そういやさ、お前、昨日片瀬と一緒だったんだって?」「え?なんで?」――瞬間、胸の奥が冷却した。悪い事したわけでもないのに。「昨日、体操部の子が見たって。お前らが並んで歩いてるのを。今朝聞いた」「そ、そうか…」俺は動揺を隠せない。「でもなんで?お前ら仲良かったの?」秋田は興味を持ったようだ。俺は言葉に困った。なんでもなければ、他愛のない世間話だと言えた。が、もう今の俺は彼女に惹かれている。その場をごまかすほどの機転は効かなかった。「ちょっと、こっちへ…」俺は意を決し、有無を言わさず彼を引っ張った。「…ちょ、なんだよ。いきなり拉致監禁?まだ心の準備がアタシにだって…」「やかましい!いいから来い!」男には強引な俺だった。やがて屋上。授業はサボった。空は青く、日は高かった。少し強めの風が快く頬を撫でては去り、舞い戻ってきた。俺達は柵に寄りかかり、座りながら話し始めた。秋田には片瀬との事を黙っていて欲しかった。他の男子や友人に喧伝されたらたまったものではなかった。話好きな男だが、大事な事には口が堅かった。約束や頼み事を無下にする様な人物ではなかった。この辺りが、彼の人気の理由でもあった。「言わないでくれ。頼む」俺は深々と頭を下げた。「話が見えねぇよ。なんだか困ってて、必死なのはわかるけどさ。とりあえず落ち着いて話してみろ」「実は…」俺は喋った。包み隠さず喋った。秋田を心底、信頼できる親友だと思っていたから。「そう…か…」秋田は腕を組んで目を閉じ、時折唸りながら聞いている。「だからな、彼女に告白する前に、俺の気持ちを彼女に知られてしまうと困るんだよ」「お前も一応落ちぶれたとは言え、もののふの端くれだから、告白するなら知られるのではなく、自分で言いたいと」「落ちぶれたもののふの端くれではないが、まぁそうだ」「でも片瀬は難しいんじゃねー?いやいや、やる気を削ぐ訳じゃないけどさ」「釣り合ってないのは自覚してる。それを差し置いても…」俺は言葉に詰まる。まだ人に言うのは恥ずかしい。「惚れていると。好きだと」秋田は補完してくれた。「…うん」小さく頷く。「あいつは学校のアイドルみたいなもんだからな。おまけに体操部で容姿端麗、成績も上々で、性格もいいと来た。南ちゃんみたいなもんだよ」「そう…だな」「方や君は、まぁ、見た目はそれほど悪くない。背も高く痩せてるし。が、特別美男子でもなく、オシャレでもなく、垢抜けない。面白いわけでもなく、人見知りだ。成績は真ん中くらい。出来るのは国語だけ。スポーツはダメじゃないが、得意でもない。球技はセンスがない。楽器が出来るわけでもない。蛇足だがケツに大きな痣がある」「…蛇足はともかく良く知ってるな」彼の指摘は全て的を得ていた。人物評は得意な秋田だった。「まぁでも、恋愛なんてどう転ぶかわからないよ。世の中の美男美女が皆釣り合った相手と付き合ってるわけじゃないし」「…詳しいんだな」大人びた彼の発言に感心した。「いや、昨日テレビで言ってたの」彼は照れくさそうに言った。「片瀬か…あいつ去年転校してきたんだよな。なんか親の仕事の都合とかで。まだ1年かそこらなのにもう有名人だもんな」「そうなんだ。全然知らなかった」「そこなんだよ。お前は何も彼女の事を知らない。俺の方が知ってるんじゃないかってくらい。片瀬の家、電話番号、家族構成、親の仕事、あいつの趣味、食べ物の好き嫌い、あいつの友達、彼氏や好きな人のいるいない。どれか一つでも知ってんのか?」「…顔と名前と部活くらいしか…」改めて彼女の事について、何も知らないことを知る。「ぶっちゃけると、今彼氏がいるのかどうか」「ああ〜」俺は全くその事を考えていなかった。「もしくは、付き合ってなくても、好きな人がいるのか」「あああ〜」それも考えてなかった。「もしくはレズなのか」「ああああ〜!」思いもよらなかった。俺は目の前が暗くなった。「…最後のはボケだったんだけど。むしろ怒られると思ったんだけどな」「へ?…あ。」「…疲弊してますね、西野君」「…どうもそうみたい…」片瀬の事となると、まともに頭が働かない。「ともかく、まだ早えー。告白するのは。まず、あいつとの関わりを日常的に持たないと。舞い上がって突っ走って転ぶ前に、必要な事を知るのが先だ。彼氏がいるのに告白して、「ごめんなさい」なんてカッコ悪いだろ。母さんはそんな風にお前を育てたつもりも、育てられたつもりもない」「最後は意味わかんないけど、そうだな」始終、冗談を交えながらも、秋田の言うことはもっともだった。俺は先走るところだった。まずは彼女に接近しなくては。彼女の事をもっと知らなくては。まずどうにかして彼女と会わなければならない。それにはやはり、今ある接点を使うのが一番だとは秋田のアドバイス。俺は休み時間、どうにか片瀬をつかまえた。「あ、西野君、おはよう」片瀬は俺に気付き微笑む。なんだか意識してしまう。「おはよう。今日も練習?」俺は努めて冷静を装う。「ん、今日はお休み。軽い自主トレだけするつもりなの」「あ、そうなんだ」「どうしたの?」「いや、また見学させて貰おうと思ったんだ」「ああ、そうなんだ?そんなに面白かった?」「うん、面白かったよ」「そっかー。興味持ってくれたんだね。体操。なんか嬉しいな。ふふっ」笑顔。ずっと見ていたい笑顔。少し後ろめたい。体操に特別興味を持った訳じゃない。目の前の人に強く惹かれているんだ。しかし、計画に早くも綻びが見え始めた。見学して一緒に帰り、話をする予定だったのに。「じゃあ、今日は授業終わったらすぐ帰る?」「そのつもり。今日は私も帰宅部。一緒だね?」少し嬉しそうに笑う。俺もつられて一緒に笑う。「あ、そうそう私西野君に聞きたいことあったんだ」「何?」「うーん、今はちょっと時間ないから昼休みでいい?」「うん、いいよ」「じゃあ、後でね」「うん。あとで」話とやらも気になったが、彼女と昼休みを過ごせることに小躍りしたい気持ちだった。誰もいなくなってから俺は小さくこぶしを握り締め、ガッツポーズ。やがて昼休み。俺は彼女と待ち合わせして合流した。校庭のベンチに二人、腰掛けた。彼女は小ぶりな弁当箱を空ける。少し子供っぽい、可愛らしいデザインだった。「あ、昼いつも弁当なんだ?」「うん。大体そう」「親が作るの?」「うーん、自分で作る時と作ってもらう時と半々くらい」「西野君はいつもパン?」「うん、昼はあまり食べないんだ」「いいなぁ、細くて」片瀬が羨ましそうに言う。「片瀬だって細いじゃん」実際彼女はかなり華奢な方だった。ダイエットが必要な様にはとても見えない。「そうかなぁ…」そういって彼女は自分の腕や足を見る。俺も彼女の視線につられる。「…どこ見てるの?」彼女はちょっと照れて言った。「あ、いや、つい。片瀬の視線につられちゃって…。ごめん」顔が赤くなる。「…もう、真面目だと思ってたのにエッチなんだね」「い、いや…そんな事は…たまたま…」「たまたま見ちゃった?」顔は怒っていない。むしろ少し楽しんでいるかのようだ。「う、うん」「あの時も、たまたま覗いちゃった?」「あ、それは…厳密には…覗いてないんだけど…」しどろもどろになる。「ふふっ、冗談。面白いなぁ。真面目なんだから」この人は少し、小悪魔的な所がある様だ。「……それより、話って?」俺は嬲られるのに耐えられず、話を切り替えた。「ああ、そうそう」切り替えの早い彼女だった「…ええとね、西野君の文章が見たいの」「?どういう事?」「感想文とか、論文とか…日記とか…そういうのでもいいから。自分で書いた小説とかでもいいから」「小説なんて書いたことないよ…日記はたまに書いてるけど、人に見せるものじゃないし…」「うーん、じゃあ感想文とかは?」「見せてもいいけど、感想文はその本を知らないといけないし、知らなかったら読まないといけないし」「ああそうか〜」彼女はしまったというような顔をした。「本はよく読むの?」「ううん、あんまり」彼女は残念そうに呟く。何か、考え事をしているようだ。「ねえ、聞いてもいい?」「なに?」「どうして俺の文章なんて読みたいと思ったの?俺だって別に読書家って程じゃないし、文学なんて殆ど読まないし、俺よりもっと上手い奴なんて文学部とかに一杯いるよ。実際文学部に、同い年なのに凄い文章書く人もいるし」「…でもね、私は西野君の文章を読んでみたいと思ったの。それじゃダメ?」彼女は少しだけ縋る様な瞳で俺に言った。彼女との接点を模索していた俺にとってはまたとない話。大体好きな人にこんな瞳で頼まれて断れるわけがなかった。しかし、どうすればいいのか。「いや…俺だって、片瀬に褒めてもらえて嬉しかったし、望むなら見せてあげたい。本当に。だけど小説なんて書いたこともないし、書いても短編にしてもすぐに出来上がるわけじゃないし。どうしたらいいかな…。何か方法は…」俺は考え込む。が、気持ちばかり焦って何も浮かばない。「そう…。うーん、何かないかなぁ?」片瀬も考える。やがて彼女は、「そうよ!これがあった!うん、いい事思いついた!凄い!」まるで世紀の大発見をしたかの様に、飛び上がって喜んだ。興奮している。大きな瞳がキラキラと輝いて俺を見つめる。「え?な、何…?」俺は驚いて少しのけぞる。が、お構いなしに彼女は距離を縮めて言った。「――交換日記!!!」「…は?」…俺の脳は停止した。「交換日記?」俺は突拍子もない提案に戸惑う。「そう!ちょっとアイデアが古いけどね」片瀬は笑顔で言う。「でもそれって…」恋人同士がするものなんじゃ…と言おうとしたけど言えなかった。「そんな気を遣わなくていいって。昔は友達同士でもやってたみたいだし」友達と認めてくれるのか。ここで俺は初めて、攻勢に出てみようと思った。「でもさ、俺と交換日記なんてしてたらさ。怒られないかな?」「?誰に?」「い、いや…片瀬の彼氏…に」俺は勝負に出た。喉の奥で生唾を飲んで彼女の言葉に備えた。生か死か。極刑か、自由か。大袈裟でなく、判決を待つ罪人のような気持ちだった。「……」彼女は少し驚いていたが、やがて少し意地悪な顔になって、「…嫌味ですか?」「え?」「怒る人なんていないよ。彼氏なんていないもん。…今まで17年間」彼女は少し寂しそうに、怒ったように言う。俺は天の采配に感謝した。幸運に涙がこぼれそうになった。かと言ってまだ、スタート地点にすら立っていないのだが、そんな事はどうでも良かった。望みが断たれることに比べれば微々たる問題だった。「え?そ、そうなの?…なんか意外だ」努めて冷静に言った。本心ではあったけど。「何で?」「だって…モテそうだ…片瀬は」「うー」片瀬は何だか迷っている。おそらく、これから言おうとしてることに対してだろう。「どうしたの?」「…自分で言うと、ちょっと自慢みたいで嫌なんだけど、あ、これは誰にも言わないでね?」「うん。約束する」心から。は、思ったが言わなかった。「その、まぁ何度かそういう事を、言われた事は…あるの」恥ずかしそうに言う。少しも自慢げには言わなかった。「…告白?」「…うん。」そりゃあ、そうだろう。それに関しては全く驚かなかった。実に理に適った話だった。「でも、断ってきたわけだ?今まで」「…うん。全部」「なんで?皆気に入らなかったの?」「…そんな事は…ないんだけど…。カッコいい人も、面白い人も、頭の良い人も、スポーツできる人も、いた。…と思う」「凄いなぁ」改めて彼女のレベルの高さを知らされる話だ。かぐや姫みたいだ。「でも…」「でも?」「私が…いけないのかもしれない」「?理想が高いとか?」「ちょっと違うと思う。臆病…なのかな…?私、身体は大きいのに。なんか、怖かった…」「怖い?」「ちょっとね、嫌な事があって…。自分と相手に対して自信が持てないんだと思う…」「嫌な事?」「それは…ちょっと…」「?」「あ、うーん。楽しい話じゃないから、あんまり言いたくないな…」申し訳なさそうに言う。「あ、いやいいんだ。充分良く話してくれたし」「そう?あ、西野君は?彼女」「いない。いたことない」悲しいかな、即答。「ごめん、そうじゃないかと思った。奥手っぽい」彼女ははにかんで言う。「よく言われます…」自嘲気味に答える。「あ、違うよ。悪い意味じゃないよ。真面目そうって事。それに同じだね。私達。ふふっ、ちょっと寂しい同士だけど」「そうだね。でも、無理に付き合わなきゃいけないわけじゃないしね。あ、俺の方はそんな贅沢いえるような立場じゃないけど」「ふふっ。でも、真面目なのはいい事だよ」「ありがとう…でもさ…」「何?」「こういう話こそ交換日記ですれば良かったんじゃない?」「あ、そうか…」二人で笑う。近く、予鈴の音。昼休みは終わりを告げたが、俺達の関係は今これから始まろうとしていた。ともかく俺達は交換日記をする事になった。俺の頼みで、俺達意外に言わないでくれと頼んだ。片瀬は了承してくれた。私も他の誰かに見せるつもりはなかったと。二人の秘密。その言葉に俺は喜びを感じていた。日記は不定期だったのだが、早い時は1日、遅くても3日と空けずに交換していた。片瀬は部活や家の事、友達の事などごく日常的な話題を、俺は主に映画や本、たまに友達とのやり取りなどを記した。あとは二人で学校行事や、共通の知り合い、教師の話などを話題にした。結果は概ね好評で、片瀬は喜んでくれ、楽しみにしてくれていた。俺も少なくとも日記の中だけは、彼女の考えや意見を俺だけが知れることが嬉しかった。何より、彼女が俺だけのために手書きで文章を書いていてくれることが嬉しかった。彼女の字は外見同様美しく、同年代の女子が書くような女子高生の文字ではなく、綺麗で丁寧な文字だった。俺は彼女の文字すらも愛しく、その筆跡を指で愛撫するかのように優しくなぞった。互いの事を知るようになると必然仲も良くなる。俺達はよく二人でいることが多くなった。俺はそれを人に知られるのは恥ずかしいのだが、彼女は気にしていない。それは二人の間に横たわる疎隔だった。彼女は俺を友達だと思ってるから、誰に見られても構わない。俺は彼女を激しく意識しているからそうはいかない。そういう意識のズレはあった。でも、俺達は友人としては極めて良好な関係を築きつつあった。日記は日増しに文字数が増えていた。同じ様に日常での会話も増え、砕けた感じになっていった。「ねぇ、昨日のドラマ見た?」「あ〜途中までしか。どうなったの?」「ふふっ、知りたい?」もったいぶって片瀬は言う。いつもの手だ。「意地悪するなよ〜」「ああ、喉が渇いたなぁ」わざとらしく芝居がかって言う。「水道ならそこだよ」「ジュースが飲みたいなぁ」「自販機なら下の階だ」「知りたくないの?」「友達に教えてもらう。無償の友情を捧げてくれる友に。タダで」「タダより高い物はないんだよ?」負けじと食い下がる片瀬。彼女は負けず嫌いだった。「少なくともジュースよりは安い」俺は勝ち誇ったかのように言う。俺達は良くこんなやり取りをしていた。…そろそろかな。交換日記を続けて2週間くらい。俺は告白してもいい頃だと思った。告白しないで、関係を壊さずこのまま友達でいるべきかとも考えたが、どう考えても片瀬は俺にとっては友達ではなかった。友達の範疇を越えた感情を抱いていたし、それを伝えずにいることは辛かった。失う可能性があっても、もう一段上に上がりたかった。なにより、彼女に本心を隠していることが嫌だった。朝、俺は秋田と二人で登校していた。その途中、俺は意を決して言った。「俺さ、そろそろ言おうかと思うんだよ」「告白…か?」「うん」「そうか、うん、いいんじゃないか?お前ら最近仲いいし。まぁ、絶対大丈夫だとは言えないけど、しないで後悔するよりは良いよ」「うん、そうする」「当たって砕けて来い。骨は拾ってやる」「…うん。悪いな。色々助けて貰って」「…青春だねぇ」秋田は空を見上げて唸る様に言う。「ホントだな」俺は笑う。「…頑張れよ」彼は真面目な顔でそう言った。「ああ」俺は少し笑って答えた。その日の放課後、俺は片瀬に今日の分の交換日記を渡した。彼女はこれから部活だった。誰かに見られない様に手渡すのは毎回苦労したが、その苦労も俺には楽しかった。俺は一人、図書室で時間を潰し、体操部の練習が終わるのを待っていた。やがて、頃合を見計らって俺は図書室を出て、体育館の近くで彼女の姿を探した。日が暗くなっていくにつれ、じわじわと緊張の波が訪れた。「あれ?西野君?どうしたの?」「待ってた。片瀬の事を」緊張していた俺は掠れた声で言った。「…どうしたの?なんか変」彼女はおかしそうに言う。「ちょっといいかな、話があるんだ」「いいよ、ここでいいの?」「うーん、ちょっと場所変えようか」そう言って俺は彼女を誘って歩き出す。途中、片瀬は今日も色々と話してくれた。朗らかな調子で。でも俺は殆ど覚えていない。曖昧に相槌を打つ事に終始していた。やがて、川の土手にやってきた。すでに空は暗く、人影もなかった。いつもそこで草野球や草サッカーをする人達の姿ももうなかった。「この辺でいいかな」川の土手から舗装されたジョギングコースの方に降りて俺は言った。「?…うん…」彼女は不思議そうに俺を見る。見渡すと空が広い。川の周りは景色が開けていて、一面に星空が広がっていた。俺が空を見上げると彼女もつられて空を見た。「うわぁ、今日は星が綺麗だねぇ…」彼女は惚けた様に空の美しさに酔う。「そうだね。でも今、俺は目の前の星だけを見ていたい」…などと、思ったがこれは流石に言えなかった。いくらなんでも気障過ぎる。俺なんかが言ったら寒すぎる。こんな事を思いついてしまう己の思考回路を呪った。星空を見上げる片瀬がこちらを見ていないのを確認して、俺は自分の頭を軽く小突いた。俺の脳は多少、混乱していた。これも経験の無さと極度の緊張から来る混乱だった。こういうセリフはハンフリー・ボガードにでも任せてばいい。俺は俺らしく、伝えればいい。俺は少し深呼吸をして己を戒めた。落ち着け。逸るな。慌てるな。余計な事は考えるな。空を見上げる片瀬を呼ぶ。彼女はこっちに視線を移す。「?どうしたの?」「あのさ…話があるんだ」上ずる声。震えそうだったが堪えた。「なに?」俺は彼女をまっすぐに見据える。片瀬は少し、きょとんとして俺を見ている。頭の中は空っぽだった。もうこの言葉しか言う必要はなかった。意を決し、口を開いた。「…好きだ、君の事が」「……え……」賽は投げられた。それはたった今俺の手元を離れ、これから彼女の采配に委ねられる事になった。どんな目かはまだ解からなかったが確実に、今。賽は投げられた。「俺と、付き合って欲しい」「………」片瀬は驚いた顔のまま、固まっている。俺は少し違和感を感じた。彼女ほど告白されるのに慣れた人にしては、随分驚いている事に。もっと冷静な反応が返ってくると思っていたが。「西野君…、私の事を…好き…なの?」「うん」即答。きっぱりと。はっきりと。しっかりと。「本当に?…本気なの?」「そうだ。本気だ」もう一度即答。「…あ…」彼女はまだ固まっている。「返事を…聞かせて欲しい」ゆっくりと、言った。「…え?で、でも…私…」うろたえた彼女も初めて見たな…この期に及んでも俺はそんな事を思った。「い、いつから、そう思ったの?」「…あの日、練習を見学して、一緒に帰った日。片瀬と話して、別れた帰り道で、気付いた。俺は君の事が好きなんだって」「え?あ、あの時に?」「そう。それからずっといつ言おうかと思ってた…それが、今日、今だった」「…そう…なんだ…」「………」無限に思えるような、長い沈黙。俯いた彼女の顔が僅かに歪む。なんだか苦しそうだ。どうしてだろう。なんで彼女は苦しそうなんだろう。俺のせいなのか。どうして俺は彼女を苦しませなくてはいけないのか。しかし、苦しいのは俺も同じだった。体中を冷や汗が伝う。かすかに身体は震えていた。気を抜いたら倒れてしまいそうだった。平衡感覚を失い、大地に立っているという実感がなかった。ぐっと拳を握り締め、身体に力を入れた。「私は…私も西野君の事、…良く思ってるよ…」長い沈黙を破ったのは片瀬の方だった。「…え」「一緒にいて、楽しいし、優しいし、真面目だし…。…交換日記も、…面白いし…」一つ一つ区切るように、彼女は言う。「じゃ、じゃあ…」俺は少し身を乗り出し、先を急いだ。希望が見えた気がする。もしかして…?また少しの沈黙。…それから。「――……」彼女は小さな声で、俺から目を逸らしたまま何か呟いた。「…え?」しかし、その時、強い風が音を立てて俺達や川原の草花を揺らした。片瀬の声はその風と草木がざわめく音に掻き消され、俺の耳には届かなかった。俺はそれが告白に対する答えだと本能で理解した。「…ごめん、聞こえなかった。もう一度言ってくれる?」彼女は静かに伏せた顔を上げ、逸らしていた視線を俺の瞳に合わせた。僅かに、その大きな瞳は濡れていた。酷く真剣で、悲愴な表情をしていた。俺は全く微動だにせず、真正面から彼女の言葉を待った。そして、もう一度、さっきと同じであろう言葉を俺に告げた。「――……」…今度は風も邪魔をしなかった。小さく、消え入りそうな、その言葉。しかし、確かにそれは俺に届き、伝わり、聞こえた。彼女の意思を宿す音の波を。――瞬間。夜空の星も、街の灯りも、時折通り過ぎる車のライトも、この場に存在するあらゆる光は潰えたのではないかと思った。ほんのさっきまで、俺は胸の中にあった小さな光さえも。彼女は確かにこう言った。―――「ごめんなさい」と。「……そう、か…」「………」重苦しい空気。逃げ出したい衝動に駆られたが、足が動きそうもなかった。俺は気力だけで立っているような有様だった。片瀬は俺に背を向け、しゃがみ込んだ。肩を震わせている。嗚咽しているのは容易に理解できた。「…うん、…わかった」俺は溜息の様に呟いた。…まぁ…仕方ない。勿論まだ好きではあったが、振られた事で徐々に冷静さを取り戻していた。「…ごめんね?…ごめんなさい…」「いや、いいんだ。…片瀬は何も悪くない」「…う、うぅ…、ごめん…なさい…」「泣くなよ…。…どっちかというと俺の方が泣きたいんだからさ?」冗談のつもりで和まそうとしていったのだが、逆効果だった。「そうだよね?私が泣くなんておかしいよね…」しばらく宥めるのに必死だった。どうして振られた男が振った女を慰めているのか。シュールな構図だった。「もう…大丈夫?」「うん…うん」しばらくなだめ、彼女はやがて落ち着きを取り戻しつつあった。「でさ、どうしようか?」「…え?」「これからの…俺達。…関係っていうか、接し方…って言えばいいのかな」「あ…」「片瀬はどうしたい?」限りなく優しい声で聞いた。「……」彼女は困惑していた。どうしたらいいかわからないといった感じだった。「俺とはもう、一切関わりたくない?」危惧していた事を聞いてみる。「……」片瀬は小さく首を振る。…未練がましいが嬉しかった。いなくなっても構わないわけではない。その程度には思ってくれていた事が。「じゃあ、今まで通り…友達でいる?」「……うん」「それでいいの?本当に。きまずくない?」「…今は…ちょっと、難しいけど…多分大丈夫…と思う」「そうか。…良かった。そう言って貰えて」俺は安堵した。「に、西野君は…それで大丈夫なの?」「ん〜そりゃあ、思う所はあるよ。でも、片瀬が俺の中からいなくなることに比べれば全然いいよ」「…辛くないの?私の事…す、好きなのに、友達のままで」「友達でもいい。それ以上の関係じゃなくても。とりあえず、失う事にならなくてすんで、どこかホッとしている」「…うん」「じゃあ、帰ろうか?もう遅いから」「うん…」やがて、わかれ道に差し掛かる。俺達はそれまで一言も会話をしなかった。流石に語るべき言葉を持たなかった。片瀬の目はまだ赤く腫れていて、俺が泣かしたのは誰の目にも明白だった。途中、振り返る人もいたが、なるべく気にしないように努めた。「じゃあ、また明日」俺は努めていつもの様子で言う。我ながら良く頑張っている。本当は泣きたかったが、泣き顔の片瀬を見ると、俺まで泣くわけにはいかないような気がしていた。「…うん、また明日…」「ちゃんと学校来いよ?あ、それを言われるのは本来俺か」俺は少しおどけていった。「…うん…ふふっ…」ここで彼女は初めて少し微笑んだ。今や俺は完全なピエロだったが、そんな事はどうでも良かった。愛する人の泣き顔を終わらせる為にはなんら惜しまなかった。「…お休み」「…うん、…おやすみ…」片瀬は別れを告げると夜の道に消えた。俺は心細そうな彼女の背中を見えなくなるまで見つめていた。(家まで送るって言った方が良かったかな…)しかし、振られたばかりでそんな提案を申し込めるほど、俺は図太くはなかった。強くはなかった。そして、一人の帰り道。さっきまで空元気を張っていた代償だろうか、歩みは重かった。空を見上げる。何の役にも立たなかった星空の美しさがなんだかとても残酷な物に感じた。(ロケーションは良かったと思ったんだけどなぁ…。やっぱ、釣り合わないのかな…)一人反省会をしながら俯いて歩く。家はもう、すぐそこだった。自分の部屋に入り、何気なく机の上を見る。交換日記が机の棚にあった。俺は手に取り、何気なく開いてみる。片瀬の綺麗な文字が目に映る。切なかった。とてつもなく切ない気持ちになった。自分の腕に水滴が穿たれる。「……あ…」そこでで初めて泣いている事に気付いた。自覚してしまうともう止まらなかった。俺は膝を付き、崩れるように机に寄りかかり、泣いた。みっともない姿だったが関係なかった。…さっきまで必死で我慢していたんだ。一番見せたくない人には涙を見せずに済んだんだ。泣いていた彼女を、最後には笑わせることも出来たんだ。もういいじゃないか。許してくれ。誰に言い聞かせるわけでもなく。いや、きっと自分の弱さに言っていたのだろう。俺はしばらく声を殺して泣いていた。床に涙の染みが出来る。好きな人に告白して、拒絶される事の辛さ、苦しさ、悲しさを俺はこの日初めて知った。予想もしない程の痛苦に心は千切れそうになる。こんな苦しみを抱えてこれから生きていけるのか心配になる。「…片瀬…」愛する人の名前を呟いてみる。…失敗だった。涙の勢いが増すだけだった。俺はベッドに仰向けに倒れた。窓から映る空は今はもう、雲に覆われていた。もう星は見えず、少しの雨が降り始めようとしていた。心模様を代弁しているかのようだった。(そうだ…それでいい…)さっきはまるで役に立たなかった空の神様に少しだけ感謝して、俺は濡れた目を閉じた。翌朝、目は少し腫れていたが目立つほどではなかった。正直、気は重かったが学校には行かなくては。片瀬にああ言った事だし。俺は支度を済まし、家を出た。出来れば今日は誰とも関わらず、穏やかに静かに過ごしたかった。傷はまだ塞がるどころか、いたずらに刺激を受ければ再び血を流してしまいそうだった。片瀬にあったらどうしようか。知り合ってから初めて、彼女に会いたくないと思った。しかし、運命は中途半端に俺たちを引き寄せる。「……あ…」通学路、今日は片瀬は一人で登校していた。「…あ、片瀬…お、おはよう」「お、おはよう…」彼女も少し目が赤かった。夕べ、あれだけ泣けば無理もないか。流した涙の量は俺も負けていないとは思うけれど。「目が赤いね。寝不足?」俺は解かりきったことを聞く。「…うん…。夕べ、ちょっと泣いちゃって」「片瀬を泣かすなんて酷い人がいるもんだね」少しおどけて言う。「ふふっ…。…ありがとう…」少しは元気になっていたようだ。俺は安堵した。この調子なら、近い内に元の関係に戻れそうだ。例えそこから進まない関係であったとしても。とりあえず、今の俺はそれで満足だった。とりあえずその日は何事もなく無事授業は終わった。が、俺は帰りに秋田につかまった。「……」彼は黙っているが、誰よりも沈黙の似合わない男だった。「何か言いたそうだな」「いや、…聞きたいことはあるけど、今は止めとく」「どうせ、大体気付いてるんだろう?いいよ。お前の思っている通りだよ」「そうか…いやすまなかったな」「いいんだ。お前には世話になったし」「ゴメンな。お前のお気に入りのボールペン、、踏んづけて壊しちゃって」「…その事じゃない。それはちゃんと弁償しろ」相変わらず、秋田は秋田だった。俺は笑った。この明るさが今はありがたい。彼は全てわかった上で、バカをやってくれているのだ。ともかく俺は人には比較的恵まれていた。傷心の時、癒してくれる友の存在に感謝した。きっとすぐに、いつもの日常に帰ることが出来るだろう。俺の胸は少し軽くなった。しばらくすると、片瀬とも元通りになりつつあった。それでも彼女は時に以前にはない、微妙な表情をすることはあったが、告白し、胸の内を伝えてしまっている以上、以前と全く同じ姿でいるのは難しい。それはある程度は仕方のない事と言えた。しかし、告白を拒絶されても尚、俺の彼女への気持ちは変わらなかった。徐々に友達の関係が自然な姿に戻って来ても、彼女の事は好きだった。少しも気持ちが薄れる事はなかった。「再来週のマラソン大会出るんでしょ?」ある日の昼休み。片瀬は唐突に言った。「出たくないけど、単位のために…。はぁ、嫌だなぁ。まぁ、適当にダラダラ歩いて」「ダメだよそんな。出るからには頑張らなきゃ」「熱血だねぇ。何分、俺文科系だしさ。あくせく身体張る体力部門は片瀬さんに任せるよ」「ふ〜ん。そお〜。あれ?でも私の方が成績良かったような…?」「う…」「ふふっ。頑張るよね?マラソン」「…なぜそうなる…」「私は全力で走るよ?西野君も全力で走るよね?1位…はあれだけど、入賞目指して」「人は人。俺は俺。片瀬は片瀬」「もう!せっかく人が鼓舞してあげてるのに!」「だって、別に賞金や褒章があるわけじゃないしさ…」「うー…。じゃあ、どうしたら本気出すの?」「そうだなぁ。う〜ん…。……デ、やっぱいい」俺は思い付きを言うのを途中で止めた。「デ?何?言って!」こうなると彼女は強い。「で、……でーと……」尻すぼみな俺の声。「………」片瀬は少し驚いた顔をした。「あいや、いいんだ。つい。調子に乗った。悪い」俺は照れくささに目を逸らして言った。「…いいよ?」「……え…」「デートすればいいんでしょ?いいわよ。それで本気出して、あなたが一生懸命走るのなら」「…マジで?」「大マジ」「……やる。断固走る。絶対走る。俄然走る。よーし、燃えて来たーー!!!」俺は立ち上がって叫んだ。「……凄いやる気…」彼女は驚いて俺を見た。「早速特訓する。今日から」淀みなく言う。「え?で、でも」戸惑う片瀬。「問答無用。俺は毎日、夕方から川原の土手で走る」「ほ、ホントにやるの?」「男に二言はない。俺に火をつけたのは君だ」「…う、うん…で、どうするの?」「とりあえず、入賞は確か10位以内か。それを目指す」「わ、わかった…」こうして非常に単純かつ、不純なモチベーションを得た俺は夕方一人、川原の土手を走る事になった。一旦、家に帰り、支度をして夕暮れの空の下を走り、日が暮れる頃に練習は終わる。片瀬が部活を終え、帰る時間に合わせていたあたり、少なくない打算が存在していた。事実、彼女は良く帰りがけに姿を現した。「どう?調子は」彼女はスポーツドリンクを俺にくれた。「サンキュー。悪くない。思ったよりもやれそうだ。意外にスタミナはあるほうみたい。結構イケると思うよ」俺はドリンクを飲みながら汗を拭く。川辺の風が気持ちよく、身体を冷やす。「そう。ふふっ、なんかいいね」片瀬は楽しそうに笑う。「何が?」荒い息を整えながら俺は尋ねる。「いや、私西野君がこんなに頑張ってる所、初めて見た。結構熱い人なんだね」「約束があるからな。ニンジンぶら下がってれば、やる気も出るよ」「じゃあ、楽しみにしてるね。明日の本番」「ああ。片瀬も。って、そう言えば片瀬はどのくらいを目指してるの?」「勿論、優勝。女子は5㌔だし」あっさりと野望を口にする。「陸上部の奴も出るのに?」俺は驚いて聞く。「だからいいんじゃない」そう言えば片瀬は体育の成績もトップクラスだった。「勝った方が気持ちいいもん」「そりゃそうか…。ま、俺は俺なりに頑張るよ。10位以内でも、学年全体の10%に入らなきゃいけないわけだし」「でも、陸上部の人も出るでしょ?」「長距離…って言っても8㌔だけど、大体短距離、中距離の奴が多いからね、ウチの陸上部は。そんなに強い部じゃないし。それに去年もそうだけど、必死に走ってる奴なんて運動部でも結構少ないからね。基本的にウチの学校はのんびりしてるっていうか、あんまやる気のある、熱い人がいないから。俺でも充分、付け込む隙はあるんじゃないかと。特訓の成果も上々だし」「頑張ればあながち無茶でもないか、入賞も。厳しい事には変わりないけど」「そういう事。まぁ見ててよ」俺は少し偉そうに言った。「じゃ、明日」「うん、頑張ってね。入賞」「片瀬も、…優勝目指して」目標が女の子よりも低い俺は少し情けなかったが、彼女は気にも留めないで、「うん。お互い頑張りましょう」俺達は握手を交わした。彼女の手は細く、柔らかだった。しばらく彼女の手の感触を残したまま、夕暮れの中、俺は家に向かった。…走って。秋の空は晴天、風もなし。絶好のマラソン日和だった。しかし、俺の方はコンディションは良くなかった。夕べ、最後の練習を頑張りすぎたのが良くなかったのだろうか、身体は重かった。しかし、走れないほどじゃない。なんにせよ、やるしかない。俺は気合を入れて、家を出た。今日は朝から、川原に集合だった。教師や役員の生徒が慌しく、準備をしていた。「あ、おはよう。いよいよだね」しばらくして片瀬がやってきた。体操服から覗く長く白い手足が眩しい。「おう、任しといて。…って、女子が先だったよね?」「そう、女子が午前。男子は午後」「一緒にやればいいのに」「人が多くなっちゃうからでしょ?多分。あ、それはそうと、ちゃんと応援してくれる?」「するよ。優勝目指してるんだろ?」「まーね。そんなに長距離は得意じゃないけど、やるからには全力でね」「…そういうとこ、尊敬する。俺には全くないメンタリティーだ」「褒められてるのか貶されてるのか…」「いや、褒めてる。がんばれ。応援するから」「うん!」力強くうなずいて、笑った。やがて、女子のスタート時刻が近づく。ぞろぞろと、100人近い女子達がグラウンドのトラックの開始線に並び始める。400メートルトラックを一周して、土手のランニングコースを2kmと少しを往復し、最後にもう一度トラックを一周するコースらしい。計5km。俺は秋田と様子を見ていた。「片瀬なんだって?」秋田が聞く。「優勝目指してるらしい」「え?嘘だろ?そりゃ無理だよ。いくらあいつでも」「そうなのか?」「だって、陸上部の長距離エースの奴もいるんだぞ。いくら片瀬が運動神経良くても、毎日何kmも走ってる奴には勝てないよ。絶対」「そう言われて見ればそうだな。なんでそんな大きい事言ったんだろう。片瀬」俺達の会話をよそに、号砲が青空の下鳴り響く。一気に駆け出すグループ。静かにその後を追うグループ。早くも固まって談笑しながらダラダラと走り出すグループ。片瀬は最初のグループだった。先頭グループに食らいついたまま、トラックを出、ジョギングコースに向かって行った。「すごいな。俺なんてあの時点でもうバテてるよ」秋田が驚いた顔で言う。「うん。速いな…」改めて彼女の凄さの片鱗を見た気がした。「でも、今からあのペースじゃ後半持たないんじゃないか?見ろ、先頭グループは…8人か。片瀬以外は陸上部と、バスケ部しかいないよ。普段から死ぬほど走ってる奴等だ」「そう…なのか…」俺は片瀬に感心する反面、不安だった。「な、西野。見に行かないか?応援しようよ。片瀬を」「俺もそう思ってた。行こう」俺達はジョギングコースの方へ駆け出した。先頭グループは折り返し地点から、トラックの方へ戻ってきた。残り、1kmくらいだろうか。先頭グループがこっちに向かって走ってくる。ジョギングコースの沿道には他にも男子の姿があった。皆、仲のいい子、彼女、好きな子、同じクラスの子などを応援しているようだ。「片瀬は…いた!まだ食らい付いてる。…けど、ちょっと離されてる。辛そうだ…。大丈夫か?」秋田が焦り気味に言う。現在1位の生徒が他を20メートルほど離し、その後が第二集団。第二集団は現在4人。片瀬はその集団の最後だった。いや、今はもうグループからやや遅れている。大健闘と言えるが、顔は辛そうで足の運びも重そうだった。このままではさらに脱落していきそうだ。一位の生徒が俺達の前を走り過ぎた。数秒後、第2集団も目の前を走る。残りは約700〜800メートル。一番きつい時間帯かもしれない。片瀬が俺たちに近づいてきた。「がんばれ片瀬!ここを踏ん張るんだ!」俺は気付いたら叫んでいた。片瀬が俺の方を見る。目の前を通り過ぎる。その瞬間、俺は片瀬と併走した。沿道から。「いいか、フォームが乱れてる。もっとコンパクトに走るんだ。フォームが乱れるともっと辛くなる。頑張れ。優勝するんだろ!?」俺は片瀬と2メートルほど離れて走りながら言った。片瀬は俺の話を聞いて、力強くうなずいた。言葉で返事できないくらい、息が苦しいのだろう。やがて、乱れ気味だったフォームも綺麗になっていく。「そうだ、その調子!そのまま食らいつけ。お前以上にあいつらも苦しいんだ。ここでちゃんと走ってれば、必ず追いつける。見ろ。あいつらも顎が上がってきてるし、走り方も雑になってる。そのまま行ければ勝てるぞ!!頑張れ!!」俺は走りながら必死に彼女に言った。やがて、彼女はもう一度強く頷いた後、速度を速めた。その時、片瀬は少し笑った。そのまま彼女は走った。俺は立ち止まり、その背中を見送った。第二集団との差が縮まる。――抜いた。信じられなかった。が、第二集団の生徒達は明らかに失速していた。「…おおお?いけるんじゃない?」秋田がこっちにやって来て言った。「応援とアドバイスが効いたみたいだ」「しかし、お前…。熱かったな」「…しょうがないだろ。お互い健闘を誓ったしな。って、俺ちょっとゴールの方行って来る」「え?あ、おい…」俺は秋田を残し、トラックの方まで走った。コース通りに走る選手達と違い、土手を降りて直線距離を走ればこっちの方が速かった。片瀬は必死にトップの選手を追い上げた。トラック勝負になった。割れるような歓声。片瀬の人気もさる事ながら、デッドヒートの行方に皆釘付けだった。やがて、1位のランナーは勝利の歓声に包まれた。ゴールして、座り込む片瀬。激しい息をして苦しそうだ。何人かの人が彼女に駆け寄ったが、片瀬は大丈夫だと言って、その人達から離れ、俺の方に歩いてきた。まだ息は荒く、心底消耗した表情をしていた。「…お疲れ。凄かったよ」「…ありがとう。でも、負けちゃった。最後、追いつけなかった…」彼女は寂しそうに笑う。「でも2位じゃないか。凄いよ。信じられない。1位は陸上部の子だもん」「うん。確かに、良くやったとは思う。優勝するなんて言ってたけど、本当は無理じゃないかって思ってた。でも、自分を奮い立たせたかったし」「うん。よくやったよ」「んん〜でも悔しい〜!!!あとちょっとだったんだよ?20メートルなかったのに!ああもう〜〜!!」彼女は拳を握り締めて言う。だけど、表情は明るかった。「本当に負けず嫌いだね…」俺は心から感心する。「でも、楽しかった。苦しかったけど、自分の力以上のものを出せた。普段の私だったら、もっと順位は下だった」「そうか?」「うん。第二集団から離されそうになった時、ああ、もうダメだってちょっと思った。でも、その時西野君が…」「…あ〜」俺は少し恥ずかしくなる。「一生懸命、応援してくれて、励ましてくれて、ちゃんと私と前の人の走りを見てて、アドバイスしてくれたから。だから頑張れた」「いや、どうも…」「うん。凄く力強くて、嬉しかったよ」彼女は心底嬉しそうに笑った。輝くような笑み。俺が今まで見た彼女の表情の中で一番美しく見えた顔だった。「ありがとう」彼女は丁寧に言って、頭を下げた。「いや、いいって。…でもこれで、俺も頑張らなくちゃいけなくなったね。益々。片瀬は限界を超えたんだから」「うん。頑張って。応援する」「うん。ありがとう。頑張るよ」俺達は握手をした。昼休み。これから始まるレースに備え、俺は軽く炭水化物を採っただけで昼は殆ど食べなかった。事前に教師からあまり食べるなと説明があったが、やる気のない生徒達はいつも通り、旺盛な食欲を発揮していた。俺の隣にも、弁当をがっつく男が一人。「よくそんな食えるな。これから8kmも走るってのに」俺は呆れたように秋田に言った。「へ?何言ってんの?俺走んねーよ」「はぁ?」「これ食ったら食後の運動。優雅に秋の川原をウォーキング」「…やっぱりか…」「お前なんで食べないの?もしかして真面目に走んの?」「ああ」「嘘だろ?」「ホント」「…マジ?」「大マジ」「…どういう風の吹き回しだ?去年は俺とダラダラ歩いてたじゃんか。それにお前、今日調子悪そうじゃん」「調子悪くても本気で走る。去年と今年では事情が違うんだ」「ははぁ…」…気付かれたか。この男は勘が鋭い。「言わなくていいぞ」俺は会話を拒絶した。「応援した片瀬美樹ちゃんの頑張りに触発されちゃったりしてるわけだ。もしかして」意地悪そうな顔で言う。わざわざフルネームとちゃん付けで言う辺りに悪意が感じられる。「ノーコ